日本的介護の実践とは、世間的にまだ耳新しく、その言葉からの連想もそれぞれの立場でまちまちである。
古来より人間は、老いて身体の弱った仲間を助け支えていくということが、人間固有の特性であることを知り、これを「孝養」と名づけ尊いこととした。介護保険制度は「孝養の社会化」と言える。
高齢者介護は最も人間的な行為である。高齢者介護は美しく尊い行為である。
そして「介護」がその国の文化の指標であるならば、公共的価値としての日本的介護を明確にし、実践していくことが我々の努めである。
介護保険制度は発足以来、医療制度の裏方として、社会保障制度上の財政政策として、雇用創出政策として影響を受けながら、介護という公共の価値と質を明確に示せぬまま経過したように思える。
国が決定する介護サービスの価格と、事業者間の介護サービスの質的格差は、釣り合いのとれない価格と価値の関係に似ている。その要因として介護サービス、特に施設サービスの需要が高く、事業主体者がそのことにより「社会的需要」と「公共的価値」を混同している。「入所待機者が多い特別養護老人ホームは、世の中に必要とされている。」という地点で思考停止しているのだ。
日本的介護という理念は、広く社会一般から見れば、我々の意見というものに過ぎないかもしれない。しかし、公共的価値というものは、経済情勢や流行的思潮や政治的党派に左右されないものなはずだ。
貧しい者も、富める者も、病気になって寝たきりになり、認知症になる。それに対し、文明の力である医療では、その人達を救い、困難な生活状況を改善するということができない、という現実がある。宗教ならば、慈悲や愛、霊的存在の尊重などを説くかもしれない。しかし、それは現実の社会に存在する制度ではない。
ここからは日本的介護の実践に当たり、我々が自覚すべき態度を述べる。
これまで我々はアセスメントやカンファレンスによって、個別の状態や症状に注目し支援計画を策定している。個々に対する注目は大事である。その専門性も必要である。しかし、個々に注目する専門性に気をとられ、専門家として相手に接する態度に偏ってはいなかったろうか。そのような専門家精神の在り方が様々な社会福祉施設を人間味に乏しいものにしてきはしなかったろうか。
「プライバシーの尊重」も「尊厳ある暮らし」も「生き甲斐」という言葉も珍しい言葉ではない。「それらがすべてそろって良い暮らし」ということに誰も異存はないだろう。日本中の介護施設でこの言葉がお題目になっている。これが我々の目指すものであるならば、それは一体日常的にどのようなことなのだろうか。
プライバシーとは私生活のことである。内心の秘密や思想・信条といった観念的な事柄より、自分で風呂に入り、トイレで用を足し、好きなものを食べ、好きなことをする。つまり、他人の干渉を受けない事である。
しかし、介護を必要とする人達は生活の様々な場面で他人の力を必要とする。介護を受けると言うことは私生活の一部を他者にゆだねる、つまり明け渡すことである。介護者は要介護者の私生活に否応なく入り込み、その人のプライバシーの一部になる。従って、他者のプライバシーの一部である介護者が、要介護者のプライバシーを尊重する、あるいは守る、ということは第三者的なことではない。
施設職員は介護に必要な事以外は、ご利用者の言動や、またそのご家族のことなどの私生活に係わる事柄を、職員間で話題にしてはならない。休憩時間でもプライベートな時間でも同様である。その慎みがプライバシーの尊重である。
生き甲斐というのはその人にとって生活の原動力となるものだ。それは自分の意志を自分自身の能力によって実現することで得られる達成感であり、充実感であり、また、社会参加意識などであるという。
しかし、重度の要介護者や認知症の高齢者が自分の意志を自分の力で実現することは至難である。そんな人達に達成感、充実感のある生活を送ることができるだろうか。そのような人達が生き甲斐のある生活を送ることが出来るように支援するということは、どのような介護者の態度であろうか。それは、日常のほんの小さなことでもいいから、「今日より明日はきっと良くなる。」という希望を失ってしまわないように、励ましいたわることである。どんな時でも小さな希望を見つけ、それにつなぎ止め、孤独と絶望に落ちていかないようにするのが、生き甲斐のある生活を送れるよう支援するということである。
施設に入所する人達の尊厳ある暮らしとはどのような暮らしぶりをいうのだろうか。施設で働く多くの介護者は「その人がプライバシーを尊重され、その人らしく、生き甲斐のある生活をおくること。」であるという。しかしそれでは循環論であり思考停止だ。
施設に入所する人達の尊厳ある暮らしぶりとは、「その施設に入所する人の暮らしを、誰が、どんな時、眺めても、常に礼儀正しい職員によって大事にお世話されている。」と見られる状態である。
生活の質の向上と言うとき、生活には私生活と協同的生活(社会的生活)の二面がある。ユニットケアで使う言葉、プライベートとパブリックである。
いうまでもなくプライベートの質の向上はプライバシーの尊重である。つまり介護職員の慎みによって支えられる。パブリックはマナーである。協同的生活の質は介護職員の礼節と作法・話法が備わるホスピタリティによって支えられる。 礼節と作法・話法は日本の文化・慣習により形作られるものだ。それに根付いたホスピタリティが日本的介護を成り立たせる。 ホスピタリティとはおもてなしの意味という。それはその人が心地よく過ごせるように、様々な状況に柔軟に誠意を持って対応しようとする態度のことである。
それは、ここに暮らす人達やデイサービスに通い来る人達が、一人一人の職員と言葉を交わすたびに、一輪の花を贈られた気持ちになるような世界だ。
戦後の福祉思想の多くは欧米から輸入されたものだ。その根底にはキリスト教的博愛思想がある。欧米では障害者を「チャレンジド」と呼ぶ。それは健常者にはない試練を神から与えられ、それに挑む人達、という意味だろうか。
それ故、障害者は何の社会的経済的価値を生み出すことがなくとも崇高な存在である、という美しいアイデアである。
しかしながら、日本には我々にそのような試練を与える神はいない。日本ではチャレンジドという考えが情緒として馴染まないのではないだろうか。
日本の要介護者や障害者は、自分の家族や親戚や隣人の延長線上にある人達だ。年老いて健康を損ね身体が効かなくなった同じ村や町の気の毒なおじいさんでありおばあさんである。神に試練を与えられたのでも神罰に当たったのでもない。避けられるものであれば避けたい将来の自分自身の姿だと知っているのだ。
日本的介護の価値は、不運な人達への哀れみでも、それを忌避することでもなく、その人達が「この村で、この町で暮らしてきて良かった。どんな時も惨めな思いをしなくてもいいんだ。」という希望が絶たれないことにある。地域の人たちが我々の仕事を眺め、「年をとってもあそこがあるから安心だ。」と感じることこそ望まれる姿だ。日本人が無病息災・安心立命を祈って神仏に手を合わせる気持ちを、現実の安心に具現するのが我々の役目であり、日本的介護の心であると信じる。
社会福祉理論を築いた欧米社会の人達とは違い、日本人は共通の美意識や価値観を持っている。毎日の生活でそれが尊重されなければその生活は貧しいものになってしまう。
日本的介護は、我々を謙虚にさせ、我々の仕事を磨き上げ、全ての生活場面が洗練され、職員の専門性は押しつけがましさや狭量さをなくし、落ち着いた頼れる存在としてその専門性を覆い隠すのもでなければならない。
その国の、科学技術や産業力、そして教育や社会保障制度の総体を文明と規定するならば、医療はその国の文明の指標である。
その文明の力でなお救われぬ人たちが享受すべきは、介護という文化の恩恵である。
「介護はその国の文化の指標である。」
文化とはその国民の生活水準や様式、芸術、宗教、伝統や娯楽などの総体と理解すれば、日本人全ての人々が共有し、貧しい者も、富める者もその恩恵を受けることができるものなはずだ。故に介護とは、その国の文化の指標たる質を現す公共的価値を持たなければならない。価値とは価格ではない。需要と供給の市場原理で決定されるものではないのだ。
我々の目指す日本的介護の「介護」とは、
「介護とは、人生最後の舞台にある人が、我々自身が長い年月をかけて培ってきた日本文化の恩恵を享受し、日本人としてその人生を全うできように努めることである。」と考える。
日本的介護の構築には、まだまだ課題がある。職員各自の自覚、洞察、工夫、そして実践により、また一歩新たな到達点を目指そう。